回廊

日本語で文章を書くと、どう頑張っても皇居に行きつく、といったことを、誰だろう、村上龍だっただろうか、対談集で述べていて、とにかく私は驚いた。
なにをとんでもないことを言っているのだろうか。理解を示さずに断じることもできたのだろうけれど、好奇心が湧いた。どういう意味か知りたくなった。けれど彼の発言の根拠となるような考え方を紹介する学術書や新書に出会うことが今もってできておらず、咀嚼できていない歯がゆい気持ちだけが私のみぞおちをなぜている日々である。
たどり着くことを避けられない場所。
音楽でいうとツーファイブだろうか。
コード進行を多少なりとも理解している人ならば、いかに多くの楽曲が、ツーファイブによって楽曲の解決を得、またはそれを避けることで解決を避けているか、そのおびただしい数の営みを、ほとんどすべての楽曲で目にしていることだろう。
絶対に通らなければいけない回廊があって、皆そこを通っていくのを、中庭を突っ切ることで端折るのは、結局回廊の存在を認めることと同じようなものである。
別の宇宙を目指そうと思えば目指せるわけで、それは例えば私が毎月3日にあげているたどたどしいお経も、もしかしたら別の宇宙かも知れず、David Bowie の『Aladdin Sane』も、結構まともな楽曲じゃなかったような気がするなあ。
いやそもそも、楽曲は時間の経過とともに「移動している」のだろうか。仮にそうだとしたら、微動だにしない音楽とはなんだろうか。
Thee Michelle Gun Elephant の楽曲は、かっこいいなあと、少年の心をくすぐられるものもあるけれど大抵の楽曲が退屈だった。
ダラダラと、煙草を吸って吐いて、消すのを忘れて指先を火傷する、誰に聴かせるでもなく小さく舌打ちをして、こぼした灰はそのままに、ぬるくなったビールを流し込み、防腐剤の溶かしたアルミの味にまた嫌な気分になるような、頽廃的でテンポの悪いムード。
あの退屈さが、たまらなく心地よくなるもので、Rosso に至っては碌なソロもないのに6分ものスローテンポのブルースがあって、感嘆する。
明日にはトマトが色づくだろうか。