「なんで『うちの犬』っていうの?名前があるんだから、名前で言ってよ」
昔、大学のかなり上の先輩が、ジャンルなんて評論家がつけたものだ、くだらねえよと私に教えてくれた。
メロコアの思想体系から一歩も外に出れずに、不自由していることに自覚のない先輩だった。
安直な逆張りに恍惚としている彼に、もっと安直な私はふんふんと頷き、空心菜の断面図みたいな「そっすね」を返す。あるいは、『トレインスポッティング』のベグビーを気取って、手にした中ジョッキを頭にぶっかけてやりたい気持ち。
でもそうだよね。
私にとって『耳をすませば』と『未知との遭遇』は同じ映画である。
誰もうなずかない。顔を上げなくてもわかる。そこには液晶画面があるだけだからだ。
どうしてそう分類しているのかと尋ねられたら、たどたどしくも説明することはできる。
でもそういうことじゃない。
問題は、私や誰かの思う区別が、レンタルビデオショップやサブスクリプションのサイトとは異なってくるために、どこかで鶴嘴を連れて引き下がらなければならないことだ。
目的となる場所はあっても、まっすぐ掘り進めるわけにはいかなくなる。
何を言っているのか、わからない?
でも、『ソイレントグリーン』のすぐわきにスターウォーズシリーズが置いてある棚を前にして、私が得られるものはかなり少ない。
4歳になる息子が、なにかに美しさを感じ、立ち止まって、そして掘り進んでいこうと思った時。
わたしは彼をどこまで連れていけるだろう。