また帰ってくるの

仕事の合間に清水まで出向いて長屋の掃除をする。数ヶ月手を入れられず、忘れ去るようにして夕暮れをなんどもやり過ごしてきたことを後悔する。
いまさら後悔するのは長屋に足を踏み入れた自分であり、今日まで家の窓辺で夕日に頬を焼いていた私ではない。私は私のタスクをいつも身体の外、世界のどこかに置き去りにしてしまう。世界で最も身軽だが、宇宙のどこにも尋ねる理由がない。
腹が減る身体でよかった、妻が、子がいて良かったと、時折思う。

1月3日。まだ松も取れぬ期間。なんとなく携帯を見て、インスタを開いて、友人知人の正月の過ごし方を眺めてみる。今回の正月についての反省を込めて復習、来年にむけた予習。
すこしずつ日常が音もなく近づきつつあり…いやもうすでに、帰ってきているのかも?
「健全な生活」そのドミナントな力の強弱を競い合う毎日。こんなふうに、うっすらと反駁の香りを漂わせたまま、曖昧な口をきいて、数の決して多くない変わり者たちの溜飲を下げる仕草は流行らない、それに、淘汰されてしかるべきだろう。
今、防波堤は出来上がって、かつてこの湾にはチヌがたくさんいたんだといったような昔語りに耳を澄ますものは誰もいない。実際に耳にする前にもう何遍も、皆予習を済ませているから、聴く前からうんざりしているのだ。