薬缶とセカンドサマーオブラブ

薬缶を新調する。しかしもう2年近く迷っている。薬缶こそ、されど薬缶なのだ。

クリアしておきたい点はいくつもある。インターネット上の画像を何度も右に左にスワイプして、確認できることもある。できない事の最たるものが、お湯を沸かしたときの音である。薬缶に楽器のような試奏の概念はない。いざお湯を沸かしてみて、くだらないブサイクな音がピポピポ鳴ってしまうのは悲しい。新しい悲しみに出会うことを恐れているうちに、2年経った。薬缶基準で振り返る私の人生はなんと空虚だろうか。

見た目に絞って比べていると、どれもこれも、余計な装飾が気になってくる。七子の加工がそもそも過美に見えて好きでない。繊細さの表現で、取っ手に木材が付いていないものは実用性に欠ける。結果、とんでもなく質素で、独創性のかけらもない薬缶を好ましく思っていることになる。

そこがたまらなく、気に食わない。セカンドサマーオブラブ。これは非常に繊細な問題である。

使用者が主役であり、薬缶なんてものはお湯を沸かしてコーヒーを淹れるための通過点でしかなく、薬缶それじたいがコーヒーになるわけではない。しかし薬缶がなければお湯を沸かすことは叶わない。

演奏家はどこまで己を殺すべきか。これは答えの出ない問いである。私は最近アンビエントを好んで聴きあさっている。しかしミュージシャンの名前は、私の頭に少しもとどまってはくれない。ニューエイジというジャンルの音楽を認めるか、認めないか?

人間はどこまで音楽に使役されて良いのか?

薬缶は私の影に潜んで満足してよい存在なのか?

こんな事を考えて、もう2年が経つ。また2年経つのだろうか。