肩越しに見るくらいが

哀しみや、やりきれなさはブルーズが発祥して以来の音楽の友だ、多分。
歌を歌う人は、身に起った哀しみ、やりきれなさが、少しだけ通り過ぎた時に歌を拵える。
哀しみの渦中にある人は、メロディを連ねることができない。
今まさに、哀しんでいる最中だから?
そういうものだからだよ、という言葉で納得してもらいたい。

彼らの中には、人の身に降りかかった哀しみを拝借して、歌う人もいる。
無知や少しの怠慢、偶然が重なって、今生付きまとい続ける哀しみの渦中にいる、哀しみそのものみたいな人を見つけたり、想像して生み出し、歌にする。
作曲家、シンガーソングライターは観察者だ。
哀しみと呼ばれるものを他のものと区別して、切り刻んでみたり、すりつぶしてプレパラートの上に落とし、その微細な結晶をまじまじと見つめたりする。
その瞳に宿るものは、好奇心と閃きに対する渇望ではなかったか。
作曲家、シンガーソングライターは観察者だ。
哀しみそのものではない。
ましてや音楽そのもの、ですらない。
だいたいがそうか。棟梁が城だった過去はないし、船乗りが魚だったためしはない。
あ、ミイラ取りだけはミイラになる可能性があるな。
すべての観察者は、観察する対象にはなりえない。
どれだけ恋焦がれても、音楽にも詩にもなれないものに、彼らはなっていくのだなと思うと、それはまた一つの哀しみがそこに見える。
あなたにも見える?