角部屋

「インナーチャイルドの声に、耳を澄ませた方がいいらしいで」
妻がどこからか聞きなれない横文字を引っ提げて話す。最近オザケン聴いてないな。
どうも、自分の中の内なる子供の声に耳をすませることが、大事?だとか、より幸せになる秘訣だ、とかいった言説を目にしたようである。
耳を澄ませるもなにも…なあ。傍らの少年が私にほくそ笑む。
私のあゆみが前を向いているのは、不特定多数の、幽霊に近い存在の、見えないし聞こえもしない声に導かれているからであろう。でなきゃこんな夜半、私ひとりでできることなんて、ラップトップをぱたんと閉じて、すぐに熱を帯びる来客用のソファにごろんと横になって腰痛と共に朝を迎えることだけである。

手痛い失恋の思い出があり、ある、ということに関して、きっと多くの人々もうなずいてくれるかもしれない。
私は失恋を経験して、たしか生まれて初めて他者の存在を認識したのである。門外不出の恥ずかしいことである。
他者がいる、いた、こちらを見て、何事かを話している、私の頭の中に、161cm、彼女の大きさに合わせて仕立てたスペースができる。
身を切るような哀しみ、切ない感情といったものとは遠く離れて、今私は、使い古されて誰もいなくなったがらんどうを前に、途方に暮れている。
私たちは向かい合って何事かを話す、昔のことや現在どうしているか、コースターが吸うことのなかったグラスの水滴とその行方を見守り、顔をあげてうなずく。
会話がうまくかみ合わない瞬間が何度かあったのを、微笑んでやり過ごしたことを思い返す。
私はがらんどうを前に、途方に暮れている。
この部屋に誰かが戻ってくることは、きっとありえない。
だけれども私が用意した部屋はこれしかなく…。
埋めることが何を意味するのかはよくわからない。
「何を見てるの」
わからない、君じゃない事はたしかなんだが、僕は君に向かって話し続けているんだ。
地面を這いつくばった記憶がなければ、蝶は飛べないのだろうか。