「初めての女性と結婚するのだと夢想するような愚かな男だった」というフレーズで、私に大きな衝撃を与えた小説はなんだったろうか。
『第四の手』?
『熊を放つ』だったろうか、それとも『水療法の男』?
人は一人の人間を元手に、もう一人架空の人間を拵えることができる。
それも消極的に、気が付けば作っている。
青春時代の大半を共に過ごさなかった、幼い頃の友人に会うことを私が避けているのは、自分の中にいつの間にか練り上げられていた人物像とは異なる生き物が、まるで当人であるかのようにふるまって(事実本人なのだから仕方ない)、昔の思い出を語り始めることに強烈な違和感を感じるためかもしれない。
記憶の中に散らばった断片をつなぎ合わせて作り上げられた架空の彼女と、私のあずかり知らぬところで、実社会の海のなか、遠泳を続けて幾分疲れた現実の彼女とを見比べる(「その時から俺は、片方の目で過去を見て、もう一方でいまを見てた…」)のは、他人の空似に目を凝らして、違うと、見切りを付けるきっかけを永遠に失った時のような居住まいの悪さを感じる。
物理的な距離と幾分かの時間を置くことで、再び静かに笑いあえる時がくるけれど、関係というやつが生ものであることに変わりはない。
人間はどうも機械にはなれそうにない。
急速に近づいてくる彼らの足音は、扉一枚隔てた向こうでぐるりと踵を返して走り去るだろう。
なんて不安定な有機体だ、微笑み返したその足で、バスタブで肌を裂いたりして…。
じっと手のひらを見つめて、これが私の欲しかったものかと尋ねても、顔をこわばらせたままの西日があるだけだ。