朝起きて、雨に肩を落とし、コーヒーを飲みながら朝飯を食べ、髭を剃り着替えていたら昼飯を作る時間になり、最近覚えた牛乳を使わないカルボナーラと、生ハムとトマトのサラダを食べ、食後に大きなクグロフとコーヒーを嗜んで、洗い物をして、少しの事務仕事をしていたらあっという間に夕刻である。
迷う心は沢山の時間を一息に食べつくしてしまうのだろうか。いっそ頭でも強くぶつけて、痛みと額からの派手な出血に慄きながら過ごしていた方が、確実に時間の浪費は少なくなるだろう。目の前の仕事を早く片付けて、血をぬぐい包帯を巻きたいからだ。
ルーティーンというものを頑なに拒んできた。私が始めた小さな習慣が、坂を転がっていく車輪のように、私の身体を離れて、スピードを増していくような感覚が、怖かったのだ。
しかし大人になった。バスタブに降りてくる大きなひらめきの天使でなく、ルーティーンで始めた小さな事柄たちが、それぞれに加速度を得て、習慣、生活と呼ばれる奇妙さを伴った営みを生むことを知った。
こういう結論を私は見出した。いろいろな言葉で言い換えられているが、独自性と呼ばれるものは、時間の間隔を置いて続けられてきた、奇妙な習慣の細切れによってできた堆積物である。これはしかし、もうすでに、暴かれている。
私は雨が降れば水になって、水の歌を歌う。だけれども同時に、ひざを抱えてそっぽを向くことも忘れずにこなさなければならない。
ずーっとそういう視線で世界を見てきたから。これが私のルーティーンなのだ。