音楽以外の音

また音楽の話。
聴くものに困るときがある。
手を動かしている時間を少しでも楽しいものにしたいという、ささやかな願いはあるが、頭の中にあるミュージシャン名鑑のページをめくる努力すら、億劫に思える時がそれにあたる。
そんな時は考えなしに、mocky の楽曲を再生することにしている。
彼がどこの国のミュージシャンなのか、そもそも個人の名前なのか、バンドなのかすら、あまりよくわかっていない。
けれど楽曲の素晴らしさは超一流である。いや、この表現はあんまり、的確でない。
彼の楽曲は素晴らしい。多くの人の心に響くであろうシンプルで歌心溢れるメロディ、過剰すぎず印象的なストリングスの演出、トーンを絞った、ときにファンキーだが楽曲のムードを第一に考えたベースライン…特長を挙げればきりがない。
ただひとつ、だが決定的に空恐ろしく感じる点は、彼の楽曲のどれを聴いてみても、人間の足跡、息遣い、一つ一つの音が譜面上のしかるべき場所に納まるまでの過程が、まったく見えないところである。
楽曲から、彼のパーソナリティがまったく見えてこない。
例えていうなら、ガソリンの給油のために、せっかく外に出たのだから、ついでにドライブをしてしまおうと考えて、結果的に行きよりもガソリンを減らしてしまうような、人間としての嫌らしさが、まったく感じられないのだ。

私が生まれて初めて、私以外の他者の存在を認識したのは、とあるミュージシャンだった。バンドのボーカルだった。
弱音だらけで歌い方はへなへな、サビは叫びっぱなし。歌い飽きた曲は平気で適当に歌う。テレビの当て振りにはここぞとばかりに歯向かう。
彼は、ありとあらゆる人間らしさをその痩身に纏っていた。
彼は、人間だった。

mocky の楽曲はとてつもない没個性的な美しさを秘めている。
私が音楽に求めるものを、彼はほとんど叶えてくれる。
おそろしいほどの透明性でもって。
でも私はその間、スピーカーにどれだけ耳をすましてみても、音楽以外の音はなにも、聴きとることができない。
それは、誰かを愛したり、好きになったりし続けることが、途方もなくむずかしいことに、よく似ている気がする。