昔は、他人からすると奇異に見えるタイミングで泣いたり、怒ったり、感傷的な気分に浸っているそぶりを見せることで、周りの人々から諦めとも嘲笑とも取れる笑いが漏れる対象物として暮らしていました。二足歩行してる腫れ物。
そのため、当時を知る人々からは、まともに暮らしている(と自分では思っている)今でも、やっぱりうっすら煙たがられている(東京で暮らしていた頃の友人知人、ゴメンネ!)。
でもだいたいの場合において、それが悲しいのかやるせない気持ちなのか、悲しいのだとしたらどう悲しいのか、暑いのか寒いのか、寒いのだとしたら外気温が今10℃だから、それと比較して何度くらい低く感じるのか…。
そういった比較対象を持つための共通の単位がわからなかったために、周りに影響を及ぼすくらいに自分の感情を発露していたんだと気づいたのは、当時バイトで必要になったために買い求めたコンベックススケール(鋼でできた巻き尺のようなものです)で、いろんなものの長さを測るようになった時だった。
「ちょっと右」なのか「10ミリ右」なのか、「お腹が少し空いている」のか「お腹が満腹より5分空いている」のか、「お金がなくて悲しい」のか「ジュースを買うのに100円足りなくて悲しい」のか、簡単な事だけど全然、考えようとしたこともなく生きてきていたので、コンベックスを持ち歩くようになってから世界はパーッとひらけた。目に映るものすべてが比較対象の山。
はかることはとても大事である、と思って、息子の名前にそういう願いをこめた漢字をあてた。この話、妻にはちゃんと説明したっけ。忘れた。
「世の中のほとんどの人は、比べることしかしていないんだよ」とテグジュペリの本のどこかにあった。どちらかといえば否定的な文脈で。
でもコンベックスを手に入れてからの私は、比較から逃れることができないことを幾分か肯定的に感じており、ディテールの山を築き上げることから逃れることができないことも、肯定的に考えられる。めっちゃ面倒くさいけど。
そうやって考えてみると、別に全然演奏も歌も上手くないオルタナに傾倒したり、ヴィンテージの取り扱いの少ない、あんまり値段の張らない古着屋で、安直な奇抜さで簡単に他人の目を惹くことのできる上着ばっかり買い求めたりしてた10代後半というのも、もしかしたら比較から逃げるような振る舞いだったのかもしれない、などと思う。
比較の成立するもの、ある意味で由緒正しいものばかりに囲まれているのも、まあそれはそれで息苦しいというのはみんな思っていて…たとえば腕時計のマウンティングとか。そのため、反動としてチプカシが流行ったり、腕時計をしない人もいたりするけれど、捉え所のない霞を食って生きてるようなやつだという烙印を押されて、遠巻きに眺められている生活は、息苦しいし自分以外に救い手はいない。
そんな生活がもしも辛くなったら、人との会話の助けとなる、比較の成立する物事をたくさん手に入れるといいと思います。
みなさん、がんばって働いて良いものを買いましょう!
うーん、改めて文字にしてみると、前世紀に捨てられたような価値観に見えるけれど、それが世間と自己とを繋ぐ大切な紐帯となりうる人だっているはずなんです。