12/23

昨日は弾丸で京都〜大阪旅行に行ってきた。
東寺に参拝して立体曼荼羅を拝み、京都駅に着いた妻を拾って龍安寺方面へ。目当ての店を堪能したのち、病み上がりで体調の芳しくない妻の提案で、大阪の実家近くにある、内装が目を惹く喫茶店へと車を走らせる。
京都も右京区ほどに北上してしまえば、隣府の大阪までの道のりは遠いものになる。道中、眠くなってしまったが、妻がMr.children を再生してくれたため、突如カラオケ大会となる(歌うのは私一人である)。
「わたし桜井さんの顔が好きだった」と妻。そうなんだ、と返した覚えがある。
無事、目的地の喫茶店に辿り着き、全身を目にして内装を見つめ、感嘆の吐息をふうっともらした後はホットサンドを平らげて店を後にする。
次に、妻が大阪でよく行っている雑貨店へと足を運ぶ。妻の口から店の名前は、好意的な文脈でよく聞いているのだが、店主も営業の手を緩めないし、プライベートなことは全く聞いてこないし、私が誰であるのか尋ねてもこないし、妻もあまり打ち解けた様子がない。そして私の声はよく聞き取ってもらえない。
少しずつ生じるコミュニケーションの齟齬は、その齟齬が小さければ小さいほど、反発する力を呼ばないがために諦めて受け入れることしかできない。マスクの下で口角を引き攣らせながら半笑いで何事かを訂正するストレスを想像して、嫌になったので、彼女たちとのコミュニケーションを諦める。ただ、とてもいい匂いのロール式の精油があり、その点は素晴らしかった。

実家に帰る。息子はソファで横になって眠っていた。昨日は鳴門市の贋作美術館に連れて行ってもらい、今ハマっている『びじゅチューン!』の題材となっている作品(の贋作)を堪能して、大満足だったよう。興味の向いた事柄に関して、実際に足を運んで詳細な情報を得たり、不特定多数の人々とその情報を共有する行為、家の中で留まっていたものと社会とが結びついて眼前に現れる快感というものは、そりゃあひとしおだろうな、などと考える。


そういえば私は月曜から日曜まで習い事があったような覚えがある。
例えばミニ四駆に凝っていたとして、その大会に足を運んだり、街のゲーム屋…いまでは家電量販店に設置してあるコースで走らせるような機会を得た覚えがない。家のひとり遊びは社会と私とをつなぐことができる代物であるとは、露ほども思わなかった。
学習とは、宿題や塾の形でしか得られないものだと思っていた。
好きな事柄が、他者からの共感を呼ばないと思い込み、閉鎖的な秘匿としてしまった点は、流行り物が好きだが流行りに勘がまるで働かない母と、怠け者のくせに家に帰るのが遅い父を恨めしく思うが、まあよい。
息子が健やかに幸せに育つこと、その助力を惜しまないことが、私のできる両親への最もソフトな復讐である。