年末はありがたいことに、忙しくしている。忙しいとは言っても、まだブログを書いたり筋トレをしたり、モルモットとカヤネズミの大きさを同じくらいだと勘違いしたりできている。
忙しさの頂点に今私はいない。では頂点とはどのような状態だろうか。
きっと朝から晩までコーヒー豆を焼き、焼…やめた。長くなる上に楽しくない。
美濃加茂の、河川敷の広場にて出店する機会を得た。言葉で表現するのが難しいが…雨をたっぷりと含んで今にも降り出しそうだがじっと堪えている冬の薄い雨雲と、その間隙を縫ってじわっと滲む桜色にちかい日差し、遷移のさなかにあって所々に繁茂するススキや竹、だだっ広い空間にぽつぽつと、捨て置いてあるかのように設置されているトレーラーハウス、バーベキュー用のテントから伸びる煙突、立ち昇る煙、橋脚の色を反映して青く光る川、大きな店構えのピザ屋、規格外の窓、薪の燃える匂い(それがピザ釜でなくストーブのための薪だったのが非常に、非常に惜しい)、ありとあらゆる情報が私の情緒に何事かを訴えかけてきて、こんな場所で生きて、こんな場所で死にたいと思える時間があれば、生きたいとも死にたいとも、何がしたいとも判然としない時間とそれを見守るツーバイフォー材でできた家々があり、なんだこの世界は。
aikoの歌を好んで聴いている。好んで聴いている割に冷めた評価を下すなら、彼女の歌は色恋の歌ばかりだ。私にとって、とくだん、過去の誰かとの懐かしい日々を象徴するような歌手でもない。しかしaikoの歌を聴く男性は、特定の女性…aikoの歌が好きだった女性との思い出、彼女の影を追い求めるような格好であることがおおい。誤解を生まないようにおつたえすると、サンプル数は2だ。
なぜaikoばかり聴いているのだろう。自省してみる。意外性を人にアピールすることが面白いことだと思っている節がある。非常に不健全である。
私は私自身を、誰かの瞳を通じて見つめる真似をよくしてしまう。
どういう意味かわからないかもしれないから、説明する。…むずかしい。要約すると、人を人とも思わない、碌でもない人間である、ということである。
そうだ、先日受けたトークセッションでも印象的な事を言われたな。自分の中の御し難い感情を、彼ははっきりと「他者」と表現した。感情と呼ばれる、自分の所有している事柄ではなく、はっきりと「他者」と。
私の身体(身体くらいは、所有しているのだろうか?きっと彼には否定される)の中をうごめいているさまざまな感情を、唾棄すべき、一時の血の迷いであると軽んじてしまうから、私は目の前を横切ったりジャンプしたり、何事かを話しかけてくる人間を人として扱わず、瞳だけを切り取って弄んでいるのだろう。
物理的にそういった行いをしているとすれば、信じられないサイコキラーだ。
物理的で無くても、十分にサイコであるのかもしれない。