今日はとある方と、オンラインで、トークセッションを行った。
話を聞き切ってもらう経験を、ほとんどの人が得たことがない。
それは私も例に漏れずそうであったと、痛感した。
なにせ90分、会話の主導権を私に明け渡してくださってのトーク。言い淀み、口ごもり、なんでもあり。
促すでもなく、時折打たれる「はい」という相槌。
あんなに話を聞いてもらいたがっていたのに、いざ聞いてもらう段になると、固まってしまってうまく言葉がでない場面がなんどか。
話を聞いてもらいたいわけではなかったのではないか、と心中不安に思う。
トークの具体的な進行に関しては言及しないが、わかったこととして(いや、わかってたんだけど、指摘されるまでそれを問題視していなかったの)私は自他の境界線を無限に拡大させよう、という点にしか興味がいっていなかったことである。
それは、私が他人を鏡のようにしか考えていない節がある点にも通じる。
そして「鏡の中の人間(あえて私とは呼ばないでおこう)は、私が右手を上げた時、左手を上げているでしょう?」とのお言葉に、今まで鏡の中に、こちら側との何の差異も見出していなかった自分を感じる。
特筆すべきは、鏡の中ですら、そこに映る男は私ではありえず、時折顔を覗かせる、人に過度な期待を寄せてがっかりする傾向ですら、抑え込むべき感情といったものではなく、ひとつの個である、人格である、という全く考えたこともなかった発想。
私は自分の手足の外側に、もっとつながっていきたい。
心に何かの欠損をような心地で、他者との紐帯を得て、そして彼を彼女を、取り込もう。
といったことばかり考えていたけれど、もしかしたらこの身すらも、私とは違う他者の寄す拠なのかもしれない。
自分という生命体の枠組み、境界線を引き直す作業について、しばし考えることにする。