ゆうべはあの場所を下見に行ってきたよ、草むらを分け入って、バスケットとシートが広げられる場所、広くバイパスと川が見渡せて、君が少し時間を置いて、ひっそりと己を思って涙流せる場所を見繕ってきたんだ。情けなく毛の抜け落ちた野良犬のような足取りでね…
少女漫画的な思考回路、という表現で的を射ているのか、自信はないけれど、人が私を見る目がパアッと、劇的に変わる瞬間を夢見ている節があり、30代半ばに差し掛かってだいぶ落ち着いてはきたものの、髪型をコロコロ変えるし、髭を突然生やしたり、分け目を変えてみたり、変な服を好んで着てみたり、忙しなく見た目を変えてきたわけで、私の周りの近しい人は、それらにいちいち驚いた素振りを見せるにせよ、舌打ちを噛み潰して黙殺するにせよ、大変な苦労をかけていたように思う。
そして、容貌を落ち着かせることのない私は、端的に言って死にたく、もう少し正確に表現するならば現状に常に不満があり、ここに居たくなく、死ぬ代わりに見た目をコロコロ変えて、生まれ変わった気になって満足していたのだろう。
突き放すように言えば、あらゆる物事に対して堪え性がない。
過程、とか、時間経過といったものに色や香りがついていることに気づいたのは…いや、色や香りを付け足すことができることを自覚したのは遅く、あれは友達の家で、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT の解散ライブDVDを観ている時だったか、とにかく彼らの楽曲は冗長で退屈なものが多かったのに、不満に思わなかった点を糸口に、先述のような理解を得たのであった。
今までにない視座を得たことで、私は逆に、どうして私たちはこうも、話に結論を持たせたがるのか、「落とす」なる技術が、会話に必要だとされているのか。少し、言い淀むことで、どうして見兼ねた誰かが二の句を継ごうとするのかといった、今まで疑問にも思わなかった会話の型に対しての疑問点がふつふつと湧いてきたのだった。
どのような道筋を辿ってツーファイブへと至るか。どうせ音楽は鳴り止むし、演奏家は死ぬ。「あっ、この曲知ってる!」以上の快感、「ああ、やっと音楽が鳴り止んでくれた」以上の快感を求めるならば、イントロからツーファイブまでの過程を楽しむ感性を養わなければならない。それは時間経過に音楽が与えたムードをしっかりと感じ取る作業であり、私たちが今生の世界に死ぬ以上の幸福を見出すために必要な作業でもある。気がする。