シュレディンガーの彼

彼は足が遅かった。

しかし、彼には太くてしなやかな大腿直筋とハムストリングが備わり、強い踏み出しを得るための足の接地面の割合、スタートから風の中にある首を上に持ち上げ、上半身の抵抗を背中に預けるまでの理想的な時間、走り終えた後にほぐすべき筋肉とその順番、さらには選手生命の維持に必要な設備への資金提供を惜しまぬ企業に対しての交渉術までをも備えていた。

そして、それら所与の素質を全て認識していた。ゆえに、彼は走るということを決してしなかった。

そんなバカな話があるか。タバコの煙をふきかけてやりたい気持ちを抑えても震えて上気する頬があった。

彼は足が遅かった。そして、彼の資質が本当であるかを確かめる術を、彼は私から永久に奪った。彼は一人の人間であるのに、私には二人に見える。