囲炉裏の煤で燻された家屋には虫が寄り付かなかったそうである。
野菜の生育を阻害する雑草の類は山羊や羊が食べてくれたんじゃない?
長い長い、長い人間生活の中である日突然、意義を見出されなくて排除された営みの、副次的な要素が、今まで未然に防がれていた問題を表出させ、人々の多くは生活を以前に立ち戻らせることでその問題を再び解決に導く…といったことはしない、ようである。歪に継ぎ接ぎしながら未来へと向かっていく。腰を痛めながらドクダミを抜いてみる。地下茎で繁殖する植物は抜いていて心もとない。
マンションが立ち並んで、南北の窓を開け放っても涼しい風が家を通り抜けることがなくなり、窓を閉め切ってエアコンのスイッチをつける。室外機の生ぬるい風で、外は逃げ場を失ったエントロピーの墓場である。
とはいいつつ私は思う。覚束ない、根拠のない話だが、未来はどんどん良くなっている。最悪の現実を知覚できる。それは素晴らしいことなんではないか?
私は野原を駆け巡ることができる。陰腹を拵えなくても、好きな場所に住んで、それなりに人生を再び始めることができるかもしれない。海が見たければ車を走らせ、それを億劫がる私の怠慢さを抱きしめることもできる。
彼らは何かを変えなければいけなかったんだろうか?
彼らの戦っているポーズがお金になったんだろうか?
もう迷っている人は一人もいなくなった。
迷っていることを知らない人がたくさんたくさんたくさん、いるだけで、彼らの水先案内人は袋小路でタバコに火をつける。よく見れば乱杭歯がタールで黄色く汚れている。
とつぜん、『恋人たち』という映画のラストあたりのシーンが思いだされる。退屈な日常から自分を連れ出してくれるだろうと、駆け落ちの約束を取り付けた相手のアパートに飛び込んだ主人公は、そこで見知らぬ女とドラッグの静脈注射で自嘲地味に気持ちよくなっている恋人の姿を見る(うろ覚えである)。とにかく緩急の激しい裏切りの描写の連続だったこの映画の、もっとも残酷なシーンでもあるわけで、より残酷であることを志向しただけのシーンだと思っていたが、現実に起こっている水先案内人の責任放棄みたいな事象は、このシーンの比ではない残酷さを持っているように思う。
何の話?
自由なんてごみくずだぜ、みたいな話かもしれない。