「愛してる」って人に伝える回数よりうんこする回数が遥かに多いなんて、そんな世界が成立していることじたいが、そもそもどうかしている!
妻は「そりゃそうやろ」と言う。なんの変哲もない、私にはしかしこの事実が非常事態である。排泄の数の方が多いのであればそれを伝えればいい。詩や映画、絵画や写真はなぜそのことを伝えない?
それらは誤謬や隠蔽を成立させるための枠組みか?
私や私たちの私生活はそこまで直視に堪えられない代物なのか?
疑念がつれてきた大袈裟な律動を深呼吸で整える。どうして心は、とっ散らかった事柄に打ち震えないのだろう?
どうしてダマになったような電線をファインダー越しに認めて舌打ちするのだろう?
どうして針の穴にばかり糸を通すのだろう?
そこら辺を歩いてる犬猫が適当に交尾してできた子供のような詩を書きたい。