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昨日までミッドランドスクエアにて出店してました。
ミッドランドスクエアってえのは、私が大学に入るか入らないか…といった頃に名古屋駅の桜通口近くにオープンした商業施設でもある高層ビルで…大学は県外へと進学した私は、したがってあまり馴染みのない駅ビルなのだが、ご縁をいただいてここ数年しょっちゅう出店させてもらっております。

一昨日きのうと、イベントスペース内のBGMをカレー屋さん(カレー屋さんと言い切っていいのかは甚だ疑問の残る、才覚溢れる方です)のヤンガオさんがチョイスされており、韓国やタイの楽曲・シティポップに紛れて白眉だった(白眉というか、心打たれた)のはミツメの『エスパー』が流れてきたことだろう。
知っている、好きな曲が突然耳に飛び込んできた時の快感は素晴らしいものである。
特に『エスパー』は、リリース当時(2017年だったかな?)の年末の雰囲気も相まって、素晴らしい時間芸術であったように記憶している。

突然耳にする『エスパー』のように、友人に突然遭遇する、CMに好きな女優さんが出演しているのを見かける、といった偶然の出会いは必然的なそれよりも遥かに喜びの感情を惹起させるもので、それはどうしてなのだろう?
別に狙い定めて待ち合わせて人と会っても、ターンテーブルにレコードを置いて針を落として、積極的に聴き入ろうとしても、同程度の快感や喜びが、私の身体を駆け巡ってくれても良いはずなのに、心に訪れるものは服の上から触って感じる懐炉の熱のようなじんわりとした手合いの喜びで…。「だからどうというわけではないけれど」といった言葉で結ばれる小さな小さな心の綻びというものに、私はいつも手を焼いている。

「どうというわけではない苦しみ」を一言で言い表す言葉というものが、世界のどこかの国や集団の言語の中では頻繁に語られていたりするのだろうか。
それとも、ユニバーサルに軽視されている苦しみなのだろうか。
喜びの終わり。苦しみの終わりが、見えない苦しみ。これはこれで結構しんどいと思うけどなあ。