まだ木本としての生を全うしたことも、朝起きたら庭の山茱萸だった、なんてこともないから、移動しない生命というものの心境には考えが及ばない。
いやちょっと待て、木にとっての心境をどのように定義している、木々を上からみたことはないのか、風に梢をそよがせる木々を動いてないとお前は言うのか、等々。
うるせえ。今日は御託には用事がない。
移動について考えたい。私は右足を出す、そうすると、次の瞬間には更に右足を出す以外のすべての動きの中から、一つを選んで実行せねばならない。
別に右足を踏み出して、そのまま立ち止まることもできる。時間的、身体的、社会的に許されるのならば、その場所から微動だにせず、即身仏となることもできよう…でもできない方向で考えよう。ね、お願い。わかるでしょ。だって無理じゃんね。
我々は歩幅の大小はあれど、常に動いていなければならない生き物である。右足を踏み出したら、いつかはそれを納めなければならない。
一つの動作は、それ以前の動作の帰結するところのものでもあり、なにかの一連の運動の始まりでもありうる。
彼の左目の下瞼を人差し指でなぜるように掻く仕草は、大切な話を終えた後の癖なのかもしれないし、鼻をほじる小指を隠しているだけなのかもしれない。今涙が止まらないのは、棺の前で派手に泣く妹の手前、流すことのできなかったものが遅れて出ているためかもしれない。
ゼロサムゲーム的発想だが、私は何が言いたいかってぇと、すべての表現活動にはすべて助走が付き従っていたのだろう、という仮説があるよねっていう話がしたかった。
なんのベクトルも存在しない凪の心でいる間、次の瞬間に15分ほどの大曲を作曲しようとは思わないだろう。凡人の発想かもしれないけれどね。
さる、高名なミュージシャンがインタビューされる際、自宅にレコーディングスタジオを設けないのかと問われていた。
それに対し彼は、スタジオが自宅にあっては発表しようという気概の生まれる余地がない。重たい楽器を背負って、満員電車に揺られ、ドアの開く方向を間違えてペコペコしながら車内を馬鹿でかい楽器ケースと共に横切ったり、お金を払ってスタジオを予約したりといったストレスがあるからこそ、人は音楽を不特定多数の人々に向けて発表しようという気概が生まれるのだ…といったことを述べていた。うろ覚えゆえ、ディテールがだいぶ異なるかもしれない。だから名前は伏せます。彼はその見た目とは裏腹に至極真っ当なことを言うミュージシャンだと思った。そして、凡人たる私も、同じことを思った。
どこかの国の言語において、明日と昨日は同一の単語で表されるといった話を聞いた。もうどこで聞いたかは思い出せない…。今日、いや、今現在を起点にして過去も未来も距離として同様に測る世界の捉え方に、最近ものすごく意識を引っ張られているように感じる。殴ったことで、殴られたものが吹っ飛ばされる。この世は密室である。私がもしどこへも行こうとしないのだとしたら、それはどこに行くのにもなんの足枷も存在しないことの証拠だろう。さぁそれでは、果たして、どうだろうか。