続・死にたいことについて

私たちの成熟した社会における営みの殆どが、徹底的に間違っている…いや、生物として不自然である可能性から、私が目を逸らして生きている理由は、単純に面倒な事に首を突っ込みたくないから。死ぬのは猛烈にこわいくせに、死にたいからね、ボクって。

論語に則れば、疑問を持ちつつも口を噤む、小人たる私は社会に同じているものの、和してはいないことになる。無抵抗に首肯する。

新しい価値観、なにかの変革を機に捨て置かれ、顧みられなくなった価値観、一部のコミュニティのみが持つマイナーな価値観。こういったものは魅力的だし、もしかしたら本当に世界を覆すかもしれない。凪いだ海や湖面に落とすには恰好の石だ。そうだろう。きっと。

でも波打つのは石を投げたあなたでなくて水たちだ。

いつもちょっとだけ草臥れて、喜んだり悩んだり、何かの不足を感じながらもそれを言い当てられずに毎日を過ごす水たち私たちだ。

私たちの暮らしは徹底的に間違っているのかもしれない。小さな傷口から忍び込んだ毒が全身を駆け巡って、実は今まさに端の方から、壊死しつつあるのかもしれない。

でも、体に毒が回っている人に、「このままじゃ死ぬよ」と伝えることは彼を生かすのだろうか。

料金所に着くまで、足が無くなっていることに気づかなかったバイク乗りの話を思い出す。

「大丈夫?」と言われて、私は何度手元を狂わせてコーヒーを溢したか、しれない。

いつもちょっとだけ死にたい私を支えるものは、命を奪いにくる明証の光でなく闇の中で瞳に焼き付いて消えない残像の光である。