また音楽の話。
歌の歌詞が好きである。
やれサウンドがどうだ、あそこのヴィブラートがどうだ、ギターが変わってあのバンドは花開いたね、みたいなスポーティ(?)な話も、嫌いではないが、私にとってそれはかなり副次的なことである。
私が好きなのは歌詞であり、その音楽は、彼らの口にする言葉がたゆたう波間を照らし出す篝火のようなものである。
ただ、歌詞が好きだといっても、今まで聴いてきた楽曲の、歌詞の全てを覚えているわけではないし、耳にこびりついて、事あるごとに思いだされるフレーズがいくつかある、といった程度である。
なにより、イヤホンの奥から流れてくるメロディに合わせて、恍惚とした気持ちで口ずさんだ彼らの言葉を、実際に歌詞カード上に印刷された文字として目にしてみると、意外に陳腐な表現に感じてしまう瞬間があって、がっかりする。不思議なものである。
あの経験は、誰しもが覚えがあるものだろうか。
一つの音符に、ほぼひとつの音節(詳細は難しかったので割愛。)しか歌えない日本語は、一曲だいたい3~4分のポップスの中で歌える情報にも限りがあるというもので、尺や譜割りの問題で泣く泣く、「愛してない」ところを「愛してる」と歌ってしまったミュージシャンは、沢山いそうな気がしている。決していてほしくはないけれど。
先日、バンドをやっている友人のために歌詞を書くという、珍しい仕事(というか遊びの一環である)を喜び勇んで引き受けた。
ノートとにらめっこをしながら、あれやこれやと、私の人生の三十数年間のうち、一日も休まずに訪れてくれていた、夕方という時間について思いつくままに、雪だるまのように坂を転がっていく間に増えていく木の枝とか石ころのような余分なものも、削り落とさず一緒くたにして、これが詞だと自らを納得させ、ええいままよという気持ちでメールした。
数日経った今日、 yumbo という、私がその詞をこよなく愛するバンドの『しろいもの』という楽曲の歌詞を見て、やはり彼らには足元にも及ばないと感じてしまった。送り付けた私の文字の羅列(もはやそう呼ぼう)に、少なからず達成感を感じてしまっていたことを恥じた。
そして、歌詞カードをのぞき込んでもがっかりさせられない、稀有なミュージシャンを知っていることに、私は新たな喜びを感じるのであった。