テーブルに牡丹の花を一輪、生けた。
一輪だけ生ける、というのは私がひっそりと敬愛しているレストランの見様見真似である。
たまたま花開いた時期が一緒であったために、狭いガラス花瓶の海へ流刑となった、お互い遠縁にも当たらないよそよそしいコントラストを見るよりも、シンプルで腑に落ちる印象を持つ。
時間をかけてじっくりと、一輪とだけ対峙していると、ブーケの中の名もない花のひとつとして出会うそれに比べて、いろいろな情報が見えてくるものだ。
卓上の牡丹の葉は複雑に裂けていること、へりの方が少しくすんだピンク色をたたえていること。鼻を近づけて初めて覚えた、そのつつましい香りなど。
新聞に折り込まれた、例えば美白美容液の広告を手慰みにびりびりと、気の赴くままに破いてノートに張り付ける。
気まぐれに刻まれて、乱雑にテープで留められたコート紙には、最後の力をふりしぼって重力に逆らい始めた頬の皮を、幸せそうにふくらませてほほ笑む女性の目じりが認められ、そのときはじめて、ちりとりかゴキブリ退治にしか用途のなかった広告紙が、まったく別のものとして私の記憶に刻まれる。
覚えていてもいなくても、明日以降も生きていくために全く必要のないことを、わざわざ記憶に刻む意味が果たしてあるのかは、私にはわからない。
良いとも悪いとも、言えない。誰かがどうのと指摘する話でもない。
全く以て、余白のような時間である。