「赤」と書く以外やることがない。
ひさしぶりだ。
カタカタとキーボードを叩く音を憚る気持ちがある。
ここは寝室、傍には妻と子が眠っている。傍をどこまでの範囲に敷衍してそう呼称するか?という問題に私が22世紀的な答えを与えるとするならば、半径2mくらいなら傍だろう。そうして私はありもしない物議を醸すことに慣れている。発酵の伝道師。酵母菌も私をみて眉を顰める。細菌の眉毛とは、どこがそれに当たるのか、という議論も最近は聞かれなくなった。人類に最も親まれる哺乳類である犬ですら、人間ほどに眉毛らしい動きをする器官をもっていない。そもそも毛だらけで、どこが眉毛なのか、よくわからない。
毛だらけ。つまり眉毛とそれ以外の境目がないのだ。
私たちと私たちを分ける、形と呼ばれる概念。
君の右手の終わりと私の左手の終わりはどこだろうか。
君の瞼の終わりと世界の始まりはどこだろうか。私にしてみれば、そのどちらもわたしの瞼の終わりよりも向こう側に位置していながら、私の瞼の中に飛んできた光によって私の脳内に構成されているわけなので、つまり君という存在が物理的に佇む立ち位置、そこに存在する君と、私の頭の中で処理されている情報の中の君と、私と同様に君を網膜に認め、頭の中でそれを処理する人の数だけ、まとめると君は世界にn+1人存在しているわけだ。nの数は、ある一時点で君を視野に入れた人数に等しい。
つまり君は一人ではない。
君は一人ではないとはつまりそういうことだ。君という存在が複数存在する、ということだ。
君は孤独ではない、とかそういった意味ではない。
複数人の目に止まっていながらも孤独にはなりうる、気をつけたまえ。言葉を履き違えるな。
不思議な物である。感傷とは、どこからやってきてどこを目指すというのだろうか。粘性があるためになかなか体内から立ち去ろうとしないという意味では、ウィルスに酷似している可能性がある。
私はドロドロに溶けたいのだが、しかし身体を冷やす事なしに再び人間の体へと凝固したい、再凝結したいと、浅ましく傲慢な願いを抱えているがために、より遠くの土地を目指すことができない。いつまでも足元の泥土を眺めてしまっている。もう見飽きたぜ。
しかしあれだ、時はやるしかない元年。ああなんてつまらない物言いだろうか。ひねりのひとつもでやしない。
きっとこのまま、私は老いさらばえ、痩せ衰えて腐って手から先に腐って正気を失うこともないままじっくりぼんやりと命を落としていくのだろう。急に死ぬのもいやだ、冷静なままゆっくり死ぬのもいやだ。詰まるところ全ての死が嫌なのだが、どうしてくれようか?
私に残された手段はドロドロ、ドロドロに溶けたまま排水溝を伝って少しずつほぐれてゆきながら海を目指す存在になる事だろう。
どうにか浄水施設の不備により、私は私の構成要素を失うこともないまま海に流れつかんことをいのるが、濾し取られた私も再びどこかを目指すのだろうか?焼き場でこんがり燃やし尽くされた親父やおじさんたちは、どこでどのような存在となって異動を繰り広げるのだろうか。風か?
おじさんは風になったのか?
だからこんなにも、生暖かい日もあるのかい?おじさん?