たぶん死にたいだけ

ビートルズの歌を下劣なものだと見做して顧みなかった人は、当時もいただろうし、ブルース・スプリングスティーンの歌詞はただのハートランドの…アメリカの一辺境の労働者について歌ったものでしかないと、断じた人も当時はいただろう。彼らにとって、世界は変わらなかったのだろうか。いやそもそも、世界が変わるとはなんだろうか…。

映画館の…いや、シネコンの厚みのある椅子に背をもたせると、そのまま寝てしまうことがある。疲れていたから…という言葉で雑に纏めてしまうのは好ましくない。

たぶん、席についてホルダーにコーラを置き、携帯の電源を落としてからの2時間は、周りの席の誰かと運命を共にするような安心感が心地よいのだと思う。不幸にも地震やテロに遭ってしまった場合、冥土までの道連れがいる、という、全くもって非科学的で根拠も弱い空想で私は安堵を得る。

音楽のイントロが始まった瞬間、ある種の安堵が私を訪れるときがある。この曲が終わるまでの3分半、少しはましな環境の中で時間を過ごすことが保証された心地よさ。

これらは、五感の一部を遮断することで得られる快感のように思える。

どうして、積極的に感受するべき対象が目の前にあるのに、これを私は遮断と呼ぶのか…は、わからない。

わからないけど、なんか分かるでしょ?という気持ち。

だってそうでしょう?本当なら、体が受け取るべき情報は、いま身の置かれた場所における害敵の脅威や食糧を得られる可能性であることが、生物として正しいはずなのに、架空の世界における、人の手によって情報量を削がれた偽物の営みなんか観ていても腹は膨れない。

それでも私は、全く内容が頭に入ってこなかったとしても、スクリーンから目が離せず、ヘッドホンを外すこともできない。なんでか?

きっと…それはたぶん死にたいだけなんだよ。五感を遮断された、仮死状態が好きなだけ。

風呂場まで携帯を持ち込んでしまった。

やることは山積みであるのに、液晶画面から、目が離せなくなっているのだ。