昔、熱心なイスラム教徒のエジプト人に、三日三晩イスラム教の素晴らしさを説いてもらう濃密な時間を過ごしたことがある。
彼の話す日本語は今までにテレビで見、道で聞く外国人の日本語とはまるで異なり、決して流暢でもないが饒舌で、単語も所々音が違うのだが意味はすんなりと腑に落ちて、彼の語るところの、やがて向かう天国の光景は今でも、私に天国というものの原型をもたらしてくれたように思う。
そもそも天国を描いたことのない人生だったそれまでが、なんてうら寂しい日々だったのだろうと思い返す。
この世に天国を作り出したい、それは不遜な態度だろうか。新芽の萌出でる気配を横目に、風のない陽光に襟元を暖めながら、あり合わせで拵えられたスープを啜り音楽に耳を傾けるための一脚の快適な椅子がある世界。知的なその眼と唇になんらの感情も宿さない友人と(微笑みの終わる瞬間の目撃者にはなりたくないものだ)、次はコーヒーを飲み交わして、行きがけに買った書籍を開いて、そこに蔓延るインクの香りを思いっきり吸い込んでまた閉じる。
我ながらなんと慎ましく…現実に即した天国だろうか。
虹色の暖かいシャワーもあらゆる日差しを和らげる天蓋もない。甘い海も、見る間に次々と結実し、全ての渇きや空腹を癒す果実もない。
しかし今あるもので天国を描きたく、それで十分である。ここには何もないわけじゃない。